声優・役者な葛城七穂の   ゆらゆら生活あれやこれや
by n-katsuragi
地震… 阪神大震災
2005年 10月 20日 |
今日(昨日?)地震がありましたね。
ビルの6階だったこともあって、かなり揺れを感じました。しかも結構長く…
そんな時は、この地域はそれほどでなくとも、どこかで大きいのがあったんじゃないか、と思ってしまいます。

地震には敏感です。
中学に入る前まで東京に居たので、結構地震慣れしていたのですが、あの阪神大震災が私の感覚を変えました。

あの当時、私は兵庫県宝塚市で一人暮らしをしていました。
あの朝、ベッドで目覚めた私はただただ布団を頭からかぶって、ひゃーーっと悲鳴をあげる事しかできませんでした。
とにかくありえない状況なのです。動くはずのない壁が、物が、全てがぐわぐわと動いている。
まるでマジックハウスのように…
「死」を感じました。
産まれて初めて「死」を実感した瞬間でした。
しかし、それと同時に「今はまだ死ねない!」と強く思いました。
まだやり残した事が山程あると。

あとになって、多分私は「自殺」という手段は取らないだろうと思うのは、この瞬間の自分の答えがあるからです。

揺れがおさまり、それでもすぐにまた揺れるのではないかという不安と共に、恐る恐るベッドから抜け出しました。
まだ外は真っ暗。向かいのNTTでけたたましく鳴り響いている非常ベルの音が更に不安を煽ります。
部屋の中で様々な物が倒れる音、割れる音、色々と聞こえていましたが何も見えません。
怖々と倒れた物(本棚でした)を乗り越え、何とか玄関から外に出ます。
マンションの1階に降り、周りを見渡しましたが誰一人いません。
薄明るいモノトーンの風景、しんと冷えた空気、非常ベルの音だけが響き渡り、その中にただ一人立ち尽くす自分。
まるで世界から取り残された、SF映画のようです。

あまりの孤独と不安に苛まされて、あわてて4階に戻り隣人宅の扉を叩きました。
そこでようやく顔を出してくれた隣人家族、それに他の階の住人達。
とにかく情報が欲しかった私達。その時そこにあった唯一の通信手段が私の携帯電話でした。
名古屋の実家に掛けます。繋がりました。
母がぼやけた調子で
「こっちも揺れたわよ~。待ってね~、今テレビで確かめるから」
その時の情報は確か震度4だったと思います。
その情報を聞いて、皆それぞれの部屋に戻りました。
携帯はそれ以降繋がらなくなりました。

幸い、私のマンション自体はそれほどの被害はありませんでした。
確かに部屋の中はぐちゃぐちゃです。
大きな本棚は倒れ、冷蔵庫は傾き中身を飛び出させ、電子レンジが床に転がっていました。
床に散乱したものの中に割れた酒瓶が何本かありました。洋酒の強烈な匂いがむなしく漂っています。
ベッドの足元のクローゼットが、天井までぎっちり荷物を積んでいたおかげで倒れてこなかったのは幸いでした。頭の周りに大きな箪笥など決して配置してはいけないと本当に思います。
友人は目を開けたら、顔のすぐ真横に箪笥が倒れていたそうです。間一髪でした。

うちのまわりでは火事等はありませんでしたが、やはり木造の古い家は全壊していました。
阪急電車の高架を見上げると、ちょうどカーブしたところで電車が右に傾いて倒れています。
反対側もぶつかったのでしょう、左側もぼこっとへこんでいました。
その普通ならありえない光景は、おもちゃのようにも見えました。

その日、一日中地面は揺れ続けていました。
昼間は友人宅へ行ったり、隣人宅で一緒にいさせてもらったりしましたが、夜は部屋で一人過ごさなければなりません。これほど一人を不安に思った事はありませんでした。
翌日、名古屋に避難を決めました。
劇団側からもそのような勧告がでていたのです。
駅に向かう途中、交差点で代替バスを発見し、手を挙げてまるでタクシーを止めるかのように乗り込みました。
西宮に向かうバスは、一歩間違えば河に転落する危険を孕みながら、クレバスのように地割れした道をそろそろと走ります。
運転手さんの「皆さん、しっかりつかまってて下さい!」と言う言葉に
「運転手さん、任せたでー!」と声をあげる満員の乗客達。
生死を共にしたバスの中が一体となった瞬間でした。

ようやく梅田に向かう電車に乗り込むことが出来ました。
神戸・芦屋方面からの人は歩いて西宮に来たそうです。
みんな着の身着のまま、毛布を被った人もいました。
そんな被災者の私達が、河を渡り大阪に入って目にした光景は信じられないものでした。
普通にファーストフード店や喫茶店で食事する人々、バーゲンで買い物する人々…
町が機能しているのです。
ショックでした。
ほんの30分20分、電車に乗っただけなのに…

阪急電車で京都まで出て、そこから新幹線に乗り込みました。
ちょうどオフだった私は、1ヶ月間名古屋で過ごし、戻ってきましたがガスはまだ復旧していませんでした。しばらくは毎晩のようにあちこちの風呂に出向きます。スポーツジムなど民間の施設が風呂を開放していました。

   …

今でも地震には敏感に反応してしまいます。
震災経験者はそういう人が多いようです。
一人でいたくありません。あの晩一人で過ごした不安は決して忘れないでしょう。
もっともっと悲惨な経験をされた方も沢山いらっしゃると思います。
私のように逃げる事なく、その地で踏ん張って戦われた方々の力は計り知れません…


地震、多いですね。
地球の鼓動であることは間違いありませんが、色々な思いが交錯します。
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by n-katsuragi | 2005-10-20 05:22 | ぷよぷよした思い出 | Comments(3)
Commented by lulis at 2005-10-20 10:23
ななほさん。
ななほさんは、あの震災を目の当たりにされたんですね・・。
うまく言葉にできないけど、なんか、込み上げてくるものがあって、ジーンときました。

私は、当時建築を勉強する学生をしてて、仮設住宅や地域のコミュニティーをサポート&研究のために、震災から半月後くらいに被災地を訪れました。

でも、結局何もできなくて、むしろ足手まとい。
最低限、自分の食料は持参すべきだった・・・、すごい後悔しています。
で、結局、在日韓国人の子供達と鬼ごっこしたり、絵を描いたり。
あの時感じたのは、心のケアの大事さだなーって。
運転手さんのエピソードみたいな・・・ジーンときた。
Commented by hibikichi at 2005-10-20 12:59
あー・・・地震、ホントに怖いですね。
私は実際にあの震災を経験したわけではないのですが、
地震の起こる1ヶ月ほど前まで西宮(甲子園)に住んでいたこともあって、
見知った場所の惨状を目の当たりにしてすごくショックを受けました。
未だに電気点けてないと寝られないのは・・・そのせいかな(^^;
Commented by n-katsuragi at 2005-10-20 15:05
結局私もあの震災にほんの少し触れただけでしょう。
本当の意味の被災者はもっと別の形で大勢いらっしゃいます。
翌日名古屋に帰って、何の不安もないはずの生活の中、私はただただTVのニュース映像から離れることができませんでした。一日中TVの前に座り込む日々が何日も続きました。
母の「いいかげん身体でも動かしてきたら?」という言葉のきっかけがなかったら、我に返ることもなく思考停止したまま震災映像を見続けていたでしょう。
それでもTVの中の被災地はどこか実感の無い作り物のように、フィルターがかかって見えました。